ゆるり家のケセラセラな日常

愛すべき好々爺となった‘ゆきちゃん(義父)’と、楽天的な私‘ゆるり’との日常。時々‘真彦(ダンナ)’‘ちい(義妹)’も登場します。

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認知症の終末期を考える‘代理判断’

ちょっと前になりますが、『認知症の終末期を考えるフォーラム2013』と
いうのがあり、参加してきました。

昨年も参加して感想を記事にしていますが、今回は昨年の記事を読み返すこと
なく、今回の感想として記そうと思います。

もしかしたらいっていることに矛盾があるかもしれませんが、人間ですから
感想にブレがあってもしかたがないとご理解くださいませ。

また、メモも殴り書きなのでもしかしたら失礼ながら、間違いがあるかも
しれません。
あわせてご了承の上、お読みくださるようお願いいたします。



基調講演は箕岡真子医師。
「家族の代理判断について」より。


高齢で認知症になった方が病気(ここでは例として癌)になったときに
「高齢だから」「認知症だから」という理由だけで、治療が行われない
場合があり、その判断の多くは家族がされている。

これは、「治療ネグレクト」といわれる状況になりかねない危険がある。

本人がどう思っているのか、どうすることが本人の望みなのかを熟考する
ことなく、単に年齢や認知症を理由に治療そのものを断ってしまっていいのか。


*********

家族判断というのは、認知症の方を看ている家族に往々にして降りかかって
くる問題です。

主にキーパーソンと呼ばれるかたに、それがゆだねられますが、果たして
その方がキーパーソンに向いているかから考えましょうとおっしゃっている
ようでした。

ご本人がどうしたいのか…代理というのはご本人の意思を想像し、そうで
あろうことをかわりに伝えるだけであって、どうするのかを決めていいという
わけではないようです。

難しいですが、「代理判断」は決定する権利を与えられたわけではない。
あくまでご本人の代弁者に過ぎないという位置づけと感じました。


では、ご本人がすでに自分の意思を伝えられなくなっているとき、どうするか。

それまでのその方の性格や考え方、過去の行動を思い起こし、本人だったら
どうするだろうかと想像し、それまでの体験をもちより話をつき合わせて
判断すべきということのようです。


確かにそうだと思います。
正当性に満ちていて、「ご本人の権利」は守られ「人間としての尊厳」も
失われずにすむでしょう。

理想としてあるべき方向性だと思いました。

ただ…現実は厳しい。

「お金がもったいなから」や「面倒だから」という理由は排除されたとしても
現実に「本人の希望」をかなえようとしたら、生活が成り立たなくなることが
ある。

権利や尊厳は、認知症の方だけにあるものではなく、わたしたち介護者にも
あるのだから、ご本人のことだけ考えればいいというわけにはいきません。

例は癌でしたが、治せるものなら何をしても治したいと思う反面、そこに
かかる費用も考えなくてはならない。

化学療法、手術に耐えられる身体なのか。
薬による副作用、入院による認知症の進行。
その後の生活の見通し。
介護力、看護力、家族の関係性。

本人が治したい、手術したいと思っていても、本人が認知症でなければ
これらを鑑みて断るかもしれない可能性。

手術をしなかった場合の治療、進行、余命。

痛い、苦しい思いをしたくない、でも死にたくない。

認知症でなくても揺れ動くだろう気持ちを、家族といえど他人が判断するのは
どんなに考えても、絶対にできないと思ってしまうのです。


でもしなくてはならないとき、もちろん本人がどうしたいと考えるかを
一番に持ってこなくてはいけないと思いますが、どこかで折り合いをつけないと
ならないことが多いと思います。

その折り合いでさえ、ご家族がそれぞれの立場で、それぞれの「本人像」を
だしてきたらお手上げではないでしょうか。

みんな正しくて、みんながご本人のことを思っている意見です。

到底答えなんかでない。


そんな暗澹た感想を持ってしまいました。

ただ、決めた道なら、それが正しい道だったと思えるように行動したら、
結果的にそれが「正しい選択」だったとわたしは思うようにしています。



話が飛びますが、家族判断って別に介護認定されたから始まるものではなくて、
家族関係の中で密かにあるものだったりすると思います。

それらは、本人のためといいながら、自分のためかもしれませんが。


認知症判定後、同居家族は、自分の生活を考えながらご本人を支えていく
こととなりますが、すべてをなげうって、ご本人の希望通りにするわけには
いかないでしょう。

キーパーソンとなった家族は、すべての雑務もこなさないとならなくなるかも
しれません。

そんな中、「ご本人の希望」という言葉を振りかざす専門職に出会うと、
「じゃあ、わたしの人生は?」と問いかけたくなるでしょう。


みんなわかっているんです。
みんな「本人はどうしたいかと考えるべき」と。
でも希望をかなえられるとは限らない。

自分たちの生活のなかで‘できることをできるだけ’やるだけ。
ある希望はかなえても、ある希望はかなえられない。

認知症の方の終末期というテーマに考えるのは、認知症だから判断できない
から、代理で判断するけれど、ご本人の権利や意思を尊重すべきであるという
前提を持っていないと、目の前の人が「意思ある人間・親」であることを
忘れてしまうから…という戒めなのかな?と。

関わるすべての方に、人生があって交差するけれど完全にリンクすることは
ない。

その人の人生は、その人の過ごしてきた築いてきた関係性で成り立っている。

それは、人生の最期であっても、やっぱり影響するものであると思う。

ご本人だったらと考える過程は絶対に必要だけれど、そのとおりにいかない
こともあり、それも間違いではないと思う。

もしかしたら、介護者のエゴかもしれないけれど、介護者が「本人のため」と
判断する気持ちも汲み取ってほしい。


…って思っていないと、介護なんてやってらんない。


ゆきちゃんがデイへショートへ行きたいと思っていたか。
行ってもらわないと困ります。

同居したがっていたか。
同居はしたがっていたけれど、自分の家でだった。

胃ろうを造りたかったか。
わからない。「生きたい」といったけれど、それが胃ろうを造ることだと
理解していたかは不明。

いま、どう思いながら暮らしているのか。
わからん。


本人の意思どおりのことなんて、ほとんどないだろう。
でもこれが我が家のあり方。

ゆきちゃんが不満を持っていたとしても、そんなのお互い様。
ゆきちゃんが捨てたものと同じくらい、わたしも捨てたものがある。

でもさ、得たものもたくさんあると思う。
ゆきちゃんは、温かく見守ってもらえる環境を手に入れた。
わたしは、温かく見守れる環境を与えられ、仲間ができた。

家族の代理判断だ。
ゆきちゃんの意思を尊重していたら、いまの環境はなかったかも。

だからさ、「本人のため」の代理判断も、そう悪いものではないような
気がするんだよね。

…意味が違う?


※倫理の世界の代理判断とは、ちょっと違う話になってしまいました。
 ちゃんと知りたいかたは、箕岡先生の著書をお読みくださいませ。



最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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支離滅裂で申し訳ありません。

本来もっと有意義な内容で勉強になったのですが…。
なんか…愚痴っぽい?

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プロフィール

ゆるり

Author:ゆるり
レビー小体型認知症の義父(車いす・胃ろう・要介護5)との楽しい日々。
介護はテキトーに、お気楽にがモットー!?
カテゴリ「ゆるリ家の出来事」は「レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会」で書いていた物の中から‘日常’をまとめました。
はじめましての方は、「はじめに」をお読みいただくと、なんとな~く、状況がわかると思います。

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2011年3月までおしゃべり会ブログより

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